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20151118

死んでから考えよ

戦禍とか、災害とか。外部的要因で命が奪われ得る刺激の強い現実にひとが直面した時、ひとは茫洋とした退屈さから逃れ得ていることを喜んでいるように見える。かくいう私もそうで。

テロがいけないとか、平和がいいとか、そんなのはもう脳内お花畑ならではの発言というか、せいぜい無力な他人の共感を得て時間を食い潰す程度で、現実は何も変わりはしない。

メディアの在り方だとか、政治や経済について論じたところで、論じるにとどまらず、それにコミットできたとしても、戦禍も災害もなくなりはしない。

直視することに絶望が伴う現実からも、自分を使いきる手段を汲み取るべく、体を使う。

今回のテロで、特に印象に残ったのは、生き残ることを前提とした攻撃より、自らを壊してまで通そうとする攻撃の成功確率は圧倒的に高い、というのを改めて見せ付けられたこと。

もちろん、無難な発想を持っているだとか、愛されているだとかする方がことが運び易いことの方が圧倒的に多い。ことが運び易いだけではなくて、強烈な痛みや絶望も味あわずに済む。

所謂、「成長」をし、丸くなっていくひとを、好ましいとは思う。と、同時に、共感の醸成は、ただでさえソフトフォーカスのかかった目を余計に曇らせ、愚鈍さを加速させるだけで、そこには予定調和を超える奇跡は起こりえないだろう。ゴールまでの道筋が描け、道筋の描けるゴールしかない、ということを知っている。

富や名声を追い求めることに興味が持てず、感情や自我の虚妄を知っているなら、第三者から見る限りの自我やメンタルの死を何度も迎えた先にあるものを求めるしか、生に耐える手段はないのではないだろうか。

何かに対する敵意も、戦いのあとの平和も、何かの思想のもとにひとがあることも虚妄にも関わらず、誰かの未来を奪うことにも構わず、己の名前が墜ちることも厭わず、ことに打ち込めるのは幸せなことであるとすら言える。

Dancer in the Darkで、主人公のセルマが、光が奪われた状態で生まれることも気にせず子供を産み落としたように、その子供に光を取り戻すという教義のもとに突き進み、友人からの救いの手を振り切り、断罪され死刑台に向かうステップを踏み鳴らしながら歌い続ける在り方に起きるインパクトを、このタイミングで目撃できてよかった。