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20140123

Firms of Architecture / 建築に関する映画

フォスター卿の建築術」 (2010・英/76分)
大英博物館グレート・コート、ミレニアム・ブリッジ、スイス・リ本社(通称ガーキン)、ロンドン市庁舎など。その活躍はイギリス国内に留まらず、世界中で多くのプロジェクトを手がけ、国際的な評価を受けている「モダニズムのモーツァルト」という異名をとる建築家、ノーマン・フォスターのドキュメンタリー。

鉄とガラスを多用し構造体を外部に露出させたスタイルが代表的。リチャード・ロジャース、レンゾ・ピアノと並ぶハイテク建築の御三家の一人としても知られている彼が、バックミンスター・フラーとの会話、リチャード・ロジャースやリチャード・ロング、蔡國強、U2ボノへのインタビューなどから描かれている。


Norman Foster
1935年、マンチェスター生まれ。マンチェスター大学で建築・都市計画を学ぶ。1961年に卒業し、奨学金を得てイェール大学に入り、建築学の修士号を取得する。大学卒業後、バックミンスター・フラーに師事。その後1963年、「チーム4」を共同で立ち上げ、1967年にフォスター・アソシエイツを設立、のちにフォスター+パートナーズとなる。1999年、プリツカー賞受賞。2002年、高松宮殿下記念世界文化賞受賞。1990年、英国女王より騎士爵の称号を与えられた。1997年、メリット勲章。1999年には、テムズバンクのフォスター男爵という一代貴族の肩書きを得た。


ふたりのイームズ」 (2011・米/84分)
イームズ夫妻がやりとりした手紙やたくさんの写真、生み出された美しい作品たち、そして当時「イームズ・オフィス」にいたスタッフや家族へのインタビューを通じて、夫婦のあいだの葛藤なども描かれている。

Cherles Eames
1907年、セントルイス生まれ。14歳のときに父親が亡くなり、学校に通いながら働いて家計を支える。高校時代に勤めた製鋼所で図面を描く仕事を任され、建築に興味を持つようになる。奨学金を得て地元のワシントン大学建築科に進学。だが、入学2年目に大学側にフランク・ロイド・ライトをカリキュラムに加えるよう要求したため、大学から放校される。22歳で大学の学友だったキャサリン・デューイ・ワーマンと結婚。大恐慌のさなか、知人と建築事務所を開設し、以後およそ10年建築家として働く。その間に知り合ったフィンランド人建築家エリエル・サーリネンの誘いで、31歳のときにミシガン州のクランブルック美術アカデミーの特別研究員となる。翌年、アカデミーに入学してきたレイ・カイザーと出会い、キャサリンとの離婚後、レイと結婚し、ロサンゼルスに移住。2年後の1943年、ヴェニス地区ワシントン通り901番地にイームズ・オフィスを開き、40年間にわたってレイと共に20世紀のデザインに大きな影響を与える作品群を残す。1978年、心臓発作により死去。享年71歳。

Ray Eames
1912年、サクラメント生まれ。高校で美術部に入ると絵画に熱中し、ノートを埋めつくすほどスケッチを描き始める。短大卒業後、ニューヨークでドイツ人抽象画家ハンス・ホフマンの創設した美学校に入り、6年間ホフマンの門下で絵画を学ぶ。24歳でアメリカ抽象芸術家協会というグループの創設メンバーになり、28歳のときに友人の勧めでクランブルック美術アカデミーに願書を出し、そこでチャールズ・イームズと出会うことになる。チャールズと結婚し、ロサンゼルスに移住してからの2年間、『アーツ&アーキテクチュア』誌の表紙を何度か描いていたが、その後、ほとんどの時間をチャールズとの共同作業に費やした。チャールズの死後、イームズ・オフィスの手がけた膨大な作品や資料を整理しながら、二人の仕事について文章を書き、講演を行った。チャールズの丁度10年目の命日に死去。享年76歳。


ル・コルビジェの家」 (2010・アルゼンチン/103分)
フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと並んで20世紀を代表する建築家、ル・コルビュジエが、設計したブエノスアイレス州ラプラタにあるクルチェット邸が舞台。椅子のデザインで世界的に大成功をおさめたデザイナーのレオナルドは、家族とクルチェット邸に住んでいる。

ある日、見知らぬ住人ビクトルが、クルチェット邸に向けて窓を作 ろうとしていることを知る。「ちょっと光を入れたいだけ」と言うビクトル。話し合いで解決しようと するレオナルドだが、解決せず、騒音で気持ちは乱れ、仕事も上手くいかず、妻との間も崩壊寸前。一方、ビクトル は、まるでスパイのごとくレオナルドの動向をチェックし、親しげに近づいてくる。怖れをなしたレオナルドは、ついに防犯用パニック・ボタンを設置する。

 「外国暮らしあるある」でもあり、どこでもありうる隣人トラブルもありつつの建築ドキュメンタリー。アルゼンチンでは大ヒットしたらしい。

Le Corbusier
1887年スイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とみなすこともある)。


死なない子供、荒川修作」 (2010・日本/80分)
荒川修作さん、あまり詳しく知らない時は、フンデルトヴァッサーと似たものだと思っていて、フンデルトヴァッサーと先に出会ってしまっていた私は、映画公開時はノーマーク。あとで渋谷慶一郎さんが音楽をつくった(ATAK019として発売中)と伺い、西麻布の音楽実験室 新世界で上映した時に鑑賞。

ドキュメンタリー映画は、効率よく勉強するために観るもので、映画や作品としての出来は期待できない。という、私のなかにあったセオリーを覆してくれた作品。

荒川修作
1936年、愛知県生まれ。1961年渡米、翌年より公私にわたるパートナーのマドリン・ギンズと共にニューヨークを拠点に活動を始める。60年代より、ドイツ、フランス、イギリス、日本など世界中で個展を開催し、70年ヴェネツィア・ビエンナーレでは日本代表として代表作「意味のメカニズム」を発表する。この作品を見たノーベル物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルグが賞賛し、マドリン・ギンズと共にドイツのマックス・プランク研究所に招待をうける。97年にはグッゲンハイム美術館にて日本人として初めて回顧展が開催された。90年代より本格的に身体を中心とした建築作品を手がけており、94年「遍在の場・奈義の龍安寺・建築する身体」(岡山県奈義町現代美術館)、95年「養老天命反転地」(岐阜県養老町)、2005年「志段味循環型モデルタウン」(愛知県名古屋市)、「三鷹天命反転住宅~In Memory of Helen Keller~」(東京三鷹市)、2008年「バイオスクリーブ・ハウス」(ニューヨーク、イースト・ハンプトン)などがある。 2人の活動は建築・芸術分野のみならず、生命科学、物理学、哲学、医学などの学術者との交流も深い。2005年にはパリ第10大学で、2008年にはペンシルバニア大学で、2010年にはニューヨークで荒川修作+マドリン・ギンズをめぐる国際カンファレンスが開催された。著書に『建築する身体~人間を越えていくために~』(春秋社)、『死ぬのは法律違反です』(春秋社)など。2010年5月19日死去。享年73歳。


ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」 (2008・オランダ/120分)
レンブラント「夜警」やフェルメール「牛乳を注ぐ女」など傑作を所蔵する、ヨーロッパ有数のアムステルダム国立美術館。その大規模な改築工事が2004年に始まった。しかし、同美術館は2010年もまだ工事中のまま。展示室では見ることのできない美術館の改築工事にまつわる映画。

まるで壮大なプロジェクトとその裏にある人間も模様を描いたかのような宣伝文句に騙されてはいけない。家庭裁判所の裁判を傍聴するような時間だった。人間関係のいざこざや、「目的ではないところでスムーズではない」それがが苦痛でしかない私には辛い映画だった。公式HPにリンク貼ろうとしたら、真っ白。何か問題があったのだろうか……。


「スケッチ・オブ・フランクゲーリー」 (2005・米/84分)
アメリカの建築家、フランク・ゲーリーを、ゲーリーの長年の友人であるシドニー・ポラックが監督しているため、全体的にリラックスした雰囲気で撮影されており、構成も無難で観易い。こちらも公式HPが見付からず。。

デラックス版のDVDでは建築映像作品集(32分)と監督インタビュー(34分)が特典映像として収録されている。

Frank Owen Gehry
1929年、トロントのポーランド系ユダヤ人の家庭にフランク・オーウェン・ゴールドバーグ(Frank Owen Goldberg)として生まれる。イーフレイム(Ephraim)はヘブライ名。1947年に、家族とロサンゼルスに移住。1952年、最初の妻と結婚。ロサンゼルス・シティ・カレッジの夜間クラスに通い、1954年に南カリフォルニア大学より建築学士号を取得する。同年、反ユダヤ主義の影響を避けるために姓をユダヤ系のゴールドバーグから現在のゲーリーに変更。その後陸軍に従事し、ハーバード大学で都市計画を1年間学んだのち、1961年に妻と幼い2人の娘と共にパリへ移る。そこで建築家のアンドレ・ルモンデの下で働く。1962年にアメリカに戻り、1967年に事務所を設立。当初、一般向け家具のデザインを手掛けた彼は、価格をめぐり投資家と対立し、成功には恵まれなかった。1978年より世間の注目を集めるきっかけになったのは、皮肉にもサンタモニカの自宅の安価なリノベーションであった、「ゲーリー自邸(Gehry Residence)」。その後、脱構築主義建築の旗手とみなされるようになり、建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞、高松宮殿下記念世界文化賞を含む高い評価を受ける作品を数多く発表。

彼の事務所はソフトウェア技術にも精通し(彼自身は機械音痴)、モデリングと構造解析を行う航空力学・機械設計向けソフト「CATIA」を建築に適用しつつ、複雑な形態を構造的に解決すると同時に、ファサードに用いられるチタンパネルの枚数など、施工に必要な部材の具体的な数値・量までもが割り出される。ビルバオ・グッゲンハイム美術館などは、その技術を駆使した設計の一例。2002年には、ゲーリーが設計に用いるこれらの技術をビジネス化するため、Gehry Technologies社が設立された。2006年から、ティファニーのジュエリーデザインを多数手掛ける。


「アントニー・ガウディ」 (2000・日本/72分)
 映画監督の勅使河原宏が製作・監督・編集を務めたドキュメンタリー作品。32歳のときにイタリアで建築家アントニオ・ガウディの作品に出会い衝撃を受けた勅使河原が、16mmフィルムで彼の作品を撮影したが、フィルムが足りなくなり撮影を断念。24年後に35mmフィルムで撮影を再開。完成にこぎ着けた。ガウディ作品の他、カタローニャやバルセロナなど、その土地の歴史と文化が刻み込まれている。 音楽は武満徹 。

Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet
スペイン、カタルーニャ生まれ。処女作は、未完のものも含めると1867年ごろの産業コロニアだといわれている。カタルーニャ地方の芸術家は、どこか幼稚性に溢れる人物が多いように思う。彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した、生物的な建築を得意とし、その独創的なデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。


今後、上映が楽しみな作品
帝国ホテルやグッゲンハイム美術館の設計に携わった近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの伝記映画「タリエシン(原題) / Taliesin」が制作されることがEmpireonline.comによって明らかになっている。