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20140215

her

ちょっと頭のおかしい人だと思われそうで、あまり言わない、というか、相手と伝える雰囲気を選んで言うのだが、わたしの夢には、「境界線を失う」「記憶喪失」というのがあった。(その夢はあることをきっかけにして、消えてしまったけれど)

「境界線を失う」夢は、幼少期に背伸びして戦争の本だのひととひとの争いの話を読んだり、なんてことない違いから始まる仲間外れだののしょーもないシチュエーションに遭遇したり、目の前でひとがあっけなく死んでしまったり。波を乗りこなす手段や、波から遠い場所に身を置く手段を知るよりずっと前にそんなことが起こったものだから、それで押し寄せてくる波に飲まれて、私は死んでしまったんだと思う。

死んでしまった自分には、社会的立場も名前も、必要ない。
失ってしまうくらいなら、はじめからなければいい。
そういう感覚のまま、きてしまった。(つい最近まで)

「記憶喪失」は徹底的に機械的に世界に触れたいという欲求だと思う。ドガとスーラの次に好きになったのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ。その彼が積極的に取り入れた遠近法も教育で身に付くものの見方なんだって何かで読んでから、それを知る前のものの見方をしてみたい! という好奇心から始まって、扁桃体の機能を知ったり、「π」を観て人格と記憶の脆い関係性を改めて思ったり。とにかくニュートラルに精緻にものを見聞きしたい欲求は、しゅるしゅると「記憶喪失」への憧れとなった。


「名前を売りたい」「忘れたくない/忘れたい、と思うほどの強い記憶」という、それがあって生まれるピラミッドやシステムやストーリーが溢れていることに気付いた時、「大勢とは逆の電車に乗ってしまった。もしかしたら、電車にすら乗れてなくて、地上から3m浮上して生きているのかもしれない」と、思った。

思ったところで、もうどうしようもないんだけど。随分、地面を求めて、重力を探して、あたふたしたんだけど。そんな私が、スパイク・ジョーンズ監督の『her/世界でひとつの彼女』を観た。

主人公は近未来のロサンゼルスで暮す手紙の代筆ライターの男セオドア・トゥオンブリー(ホアキン・フェニックス)。彼は長年連れ添った妻(ルーニー・マーラ)に対する気持ちを引きずっている。そんなある日、最新人工知能「サマンサ」(声:スカーレット・ヨハンソン)に出会う。彼女に実態はなく、ただ画面の向こうから声が聞こえてくるだけだが、セオドアはサマンサに惹かれていく、といったストーリー。

abilityを欲望と訳していたり、英語と翻訳の差異、も印象的だったけれど、この実態を持たず声だけの「サマンサ」に共感してしまったのだ。

今でこそ、ある程度、流暢に話すことができるけれど、これはたくさんの書籍や作品やネットサーフィンした結果で、22歳くらいまでは言葉がまったく脳に追いついてこなくて、会話をしている私と、脳で、ぱっくり分かれてしまっていた。

映画のなかでサマンサは同じ人工知能と、「ことばではないもの」で会話を交わす。その感覚が、とても、とてもよく分かるのだ。

彼女の、感情がプログラミングではないか、リアルではない。という不安や(その不安すらプログラミングでは)、というループ。


作家の平野啓一郎さんが、この作品についてTwitterで呟いていらした。
試写会でスパイク・ジョーンズの『her』。良かった。僕にはかなり、分人主義的な映画に見えた。離婚調停中の妻との分人の比率が、siriの未来形のような擬人的なosとの分人の比率によって小さくなってゆく。しかし、クラウド上のそのOSは更に膨大な人間向けに分人化していて……みたいな。

男性で、社会的に認められていて、言葉を主戦場にしている方だと、こういう感想になるんだ。これ、できるものならやってみたかった、地面に足をつけて、健やかに成長して、エネルギーをフローさせてばかりいないできちんとかたちにしていく生き方をしている方ならではだよ。デカルト、ニュートン以降を自覚して生まれた感じ。

その感想で、そのひとがどんなOSを積んで、どこに魂を置いているかが見えてくる。色んな方に感想を聞いてみたい作品だ。


「マルコヴィッチの穴」「脳内ニューヨーク」、そして「アイム・ヒア」(これは未見。すぐ観ます)と続いてきた、スパイク・ジョーンズ監督の関心が、エンターテインメントとしても綺麗なかたちで作品になっている点でも、おすすめの作品。


her/世界でひとつの彼女