マニュアルで実る恋愛は、まるで自分でない自分が好かれているようで気持ち悪い。
咀嚼し易いものばかり食べてると、舌が音痴になるし、顎が発達しない。
字面ばかり、容易に見知った言葉は、あっという間に風化してしまう。
「便利って、生きることとはちょっと違うのかな」って気付きながら、社会のモノサシは、「そんなこと、気付かせてなるまいか」とでも言うように、いろんな角度から、はかってくる。
律儀でやさしい人たちは、モノサシに A+ を振られることを、待ち望む。どうせなら 規格外だの、 D だのじゃなくて、A+ が来ることを期待する。そのモノサシにはかられるために、自分は「カタチ」をもたなきゃならない。かたちをもって、モノサシが 「自分」をはかってくれるまでじーっと止まってなきゃならない。
いつのまにか、呼吸していることなんか忘れてしまって、息を潜めているうちに、まるでモノサシで示された数値が自分で、その数値を上げることが成長で、生きることだって勘違いしてくるんだ。そして、A+ をつけてくれるモノサシこそ正しい、なんて嘯いたりする。
それをやり続けることができるなら、それはとても幸せなことだろう。
私は出来ていなかった。モノサシをあてたつもりが、モノサシをもった手をどんどんずらしてしまったり、モノサシを作ったひとや事象が気になってしまったり、挙句の果てにはモノサシを放り投げて遊びに行ってしまうフマジメなオンナノコだったのだ。
テストなんてゲーム。100点のテスト。点数と答えのなかに 1-1=0 の計算式に対する、モヤモヤが止まらない。当時はこんな高尚な言葉で思考 してやいなかったけれど、あのモヤモヤは、「在る」から「無い」ってどういうことなんだろう? という世界に対する問いかけだった。ゲームはゲームで、生きることのほんの1%だって満たしちゃいない。
何度、100点を取っても、賢くなるどころか、分からないことは増えていくばかりだ。綴っても綴っても追いつけない言葉。説明しようとしても説明しきれない愛情の所以。何度、会っても、話しても、また会いたくなる人のこと。なぜ、ここに私は居るのか。
0と1のあいだにも世界があることを、0と1で綴られるコンピューターの世界から伝えてみる。